はじめまして
あなたの本来の輝きを取り戻すための心理セラピスト
二兎 (したながうさぎ)です。

私自身は身近な人に本音を話すことがとても下手でした。
聞いた人が暗い気持ちにならないか、愚痴ばかり聞かせてしまっていないかと気を使い、
話せたとしても笑い話にしていました。
そんな時に助けになったのが、遠慮なく本音を吐き出せるカウンセラーさんたちの存在です。
今、誰にも言えず苦しんでいる事があったり、心がざわついていたり、
こんなことを思ってはいけないと自分を抑えていることがあるなら、
思い切って吐き出してみませんか?
心が軽くなって、思いがけない道が拓けるかもしれません。

クライアントとセラピストの信頼関係はとても大切だと思っています。
私がどんな人物か、心理セラピストを志すまでの道のりや想いを知っていただいた上で、
あなたの大切な心の内を話してもいいと感じて頂ければ嬉しいです。
長いので年代ごとに目次にしています。
もし興味を持っていただけたらそのまま読み進めてください。
(過激に感じられる表現があるかもしれません。トラウマがある方や苦しくなりそうなら戻ってくださいね)
色々こじらせて自ら悪循環に飛び込んでいく私を、「変わった人だなぁ」くらいに思っていただければ幸いです。

プロフィール目次
【幼少期】
1.生まれた時から神経過敏
2.理由のない劣等感、子どもらしくない子ども
3.HSP、説明できない心の中、誰とも心が交わらない
【小学生】
4. 自分を抑えて…爆発し解放する
5. 劣等感をこじらせ、家族のトラブルメーカーになっていく
6. 我慢をやめたら誰にも合わせられなくなった
7.「傷ついてない振り」が本物になっていた頃
【中学・高校生】
8. どこにも属していない感覚と充実したひとり時間
9. 期待されると壊してしまう
【短大生~:トンネルの入り口】
10. 世界を一変させた元夫との出会い
11. 人格の破壊、鎧を叩き壊される
12. 束縛とDV、異世界へ入る
【21歳~深みへはまる】
13.「私」はもういない
14. 義実家での同居、夫の幼少期を察する、共依存
15. 複雑性PTSDとうつ病:腹の底で何かが叫んだ
16. モラハラが激化、生きてるだけで原因が量産
17. 「笑わせろ」という地獄の時間
18. 「返品しろ」という地獄の時間
19. 宗教…思考を縛ったもう一つの理由
20. 永遠には続かない事を希望に誤魔化しながらやり過ごす
【30代後半~突然の救出】
21. 好転への兆し、古い友人に見つけ出される
22. 「自分で歩け」負のループから抜け出す
23. 心を誤魔化すアイテムが必要なくなった
24. 前向きな痛み、調停と裁判で5年を費やす
25. 自分のペースで呼吸ができる幸せ
【今:トンネルを抜けた先の世界】
26. 振り返ってみえるもの、種明かし後の安堵
27. 自分の物語を自分で描くということ
【心はあなたを待っています】
幼少期
1.生まれた時から神経過敏
私は大阪で古くからの商売をしている家に、両親と祖父母、3人兄弟の長女として生まれました。
父はひょうきんで自由人、母は真面目で家族を支える芯の強い人でした。
何度も聞かされたのは、生まれた時から神経過敏で育てにくかったこと。
寝ない、食べない、泣いてばかり。
今思うと幼少時代からHSPの繊細な気質はよく表れていました。
家族は皆マイペースで少し浮世離れしたところもありましたが、家の中は安全、その分心の免疫力は弱く外の世界は危険だと感じていました。

2. 子どもらしくない子ども、理由がわからない劣等感
幼稚園では、元気なみんなのテンポについていけませんでした。
みんなで歌ったり踊ったりするのもなぜか嫌でたまりません。
ですが先生や友達に「どうしたの?」と聞かれたくなくて、泣いたり駄々をこねたりも出来ません。
苦手な遊びもたくさんありました。
例えば、「花いちもんめ」。
仲間で相談して相手チームの子を「あの子が欲しい」「この子が欲しい」と取り合うのですが、
人気があって何度も呼ばれる子と呼ばれない子が出来てしまいます。
いつまでもお呼びがかからないのは辛いし、こそこそと相談して誰かを選ぶのも辛い…。
変な遊びだと思っていました。
気疲れして全然楽しくありません。
子供の正直さは怖かったのですが、みんなと同じようにならなければとも思っていました。

3. HSPの説明できない心の中、誰とも心が交わらない
家の外の刺激にいつも圧倒されていましたが、子供なので感じてることを上手く説明できず、
話したとしても大抵「それがどうしたの?」「気にしすぎ」という反応が返ってきます。
「みんなそんな事言ってないよ」と。
説明すればするほど自分がおおげさで、わがままを言ってる気がしてきました。
言葉が届かない、想いが伝わらない。
誰とも心が交わらない感覚が積み重なり、「自分が我慢すればいい…」と考えるようになりました。
そのうちわかり合えないのが普通だと思うようになりました。
家族から愛されていることはわかっていたし、私も家族を愛していましたが、
愛される事と、心が通い合う事は別物だと感じていました。

小学生
4. 自分を抑えて…爆発し解放する
小学校でもボソッと蚊のなくような声しか出せず、通知表には「もう少し声を聞きたかった」と書かれるほど静かでした。
先生にも誰にも話しかけられないよう、出来るだけ目立たないように隠れていたり、内心ビクビクしていることを悟られないよう平然を装ったり、感覚を研ぎ澄ましながら感覚を押さえつけるというわけのわからない事をしていました。
低学年の登校中、突然学校へ行くのをやめました。
身体が学校に向かうのを強く拒絶したのです。
いつもは曲がらない角を曲がり通学路を外れ、知らない道をどんどん進みました。
学校から連絡が入り母には心配かけてしまいましたが、その瞬間はとても気持ち良く、解放感でいっぱいでした。
そうやって時々押さえつけてるものが爆発して自分でも予測できない行動をしていました。

5. 劣等感をこじらせ、トラブルメーカーになっていく
みんなと同じようにできない、劣等感の理由を探し続け、
私の弱さの理由は、「世間の荒波にもまれていないから」だと考えるようになりました。
友達が親に「うるさい!」と言ってるのを聞くだけでびっくりするなど、他の家の家族や兄弟間の激しいやり取りに、何度もカルチャーショックを受けていました。
私は「口げんか」「相手を罵る」という事をほとんど知りませんでした。
すると同じ環境にいる妹や弟の事が心配になりました。
特に男の子たちの激しいけんかを見ていたので、大事にされている弟が心配でたまりません。
私のように幼稚園や学校で苦労しないようにと、年の離れた弟に辛く当たるようになりました。

弟が傷つかないための予防策のつもりでしたが、親からはいじめてるようにしか見えません。
説明しても言い訳にしか思われず、わかってもらえないので次第に説明をしなくなりました。
怒られても気にする事なく学校の男の子の言葉を真似て、私なりに弟を鍛えようとしていました。
家族にとって私は「弱いものにストレスを発散する困った子」になっていきました。
弟からすれば迷惑な話です。
そうやって様々な事を勝手に思い込んで先回りし、空回りしては家族内のトラブルメーカーになっていきました。

6. 我慢をやめたら誰にも合わせられなくなった
4年生までは自分を出せずに過ごしていましたが、5年生になると人の顔色を伺う事にも疲れてきました。
家での厄介者扱いが意外と心地良いことに気付いてしまい、これを反抗期というのかわかりませんが、学校でも問題行動が増えました。
誰もいない静かな通学路が気持ち良く、時間通りに学校に行かなくなりました。
6年間欠かさず日記を書くという宿題があったのですが、書かなくなりました。
皆の前で叩かれたり立たされても気にならず、反省文も増えました。
6年生では友達とプチ家出をして騒ぎを起こしました。
母は私のめちゃくちゃな心の中を一生懸命理解しようとはしてくれましたが、私の説明も意味不明ですし、優等生で何でも当たり前に出来ていた母にとって「普通の事が普通にできない」の意味がわからなかったのだと思います。
両親が心を痛めてることは心苦しかったので、
「苦しめたくない、でも合わせられない、だからもう私の事は気にしないで欲しい」
「(心配をかけて)悪いとは思ってるけど謝れない。またやるから。謝ったら嘘になる。」
私が発する言葉は母をさらに混乱させてしまいました。
この頃から本来理性的で前向きな母が感情的に怒るようになり、手が出る事も増えましたが同時に「兎を理解できない」と泣いていました。
それでも諦めずに向き合おうとしてくれた事はとても感謝しています。
そして父は私を「あいつは変なやっちゃ(奴や)」と言いながらも「あいつを理解できるのは自分だけ」と言わんばかりに味方になろうとしてくれていました。
7.「傷ついてない振り」が本物になっていた頃
クラスではいじめが横行していましたが、その輪の中には入りませんでした。
ボスのような女の子たちから呼び出され、「〇〇と手を切れ」と命令されましたが、「なんで?意味がわからない」ととぼけて従いませんでした。
ターゲットにされている子に普通に接するので私も何度も集団無視されたのですが、
幼稚園から「傷ついていない振り」を続けていたので、平気な顔が本物のようになっていました。
私の反応が薄いので、無視もいやがらせはいつも自然に終わっていました。
中学、高校生
8. どこにも属していない感覚と充実したひとり時間
中学でも先輩に嫌われたり、同じような事が何度も起こりました。
そのうち無視されたとしても、「兎は無視しなかったから」と近くに来てくれる子が出てきてくれました。
私の悪口大会になった時も、悪口を言わない人たちが少数ですが出てきたと聞き、期待をしていたわけではないですが、このような繋がりはとても温かく嬉しく感じました。
…とはいえ、クラス、グループ、バスケ部、家族…どこにいてもどこにも属していない感覚。
寂しい、でも人といると無意識に気を使って悩みが増える。そして一人になりたくなる。
自分でもどうしたいのかよくわかりませんでした。
お菓子作り、読書、パッチワーク、カメラ、エレクトーン…結局、一人が一番安心できる時間でした。
内申点や偏差値、受験にも全く興味を持てませんでしたが、「あしながおじさん」や「赤毛のアン」に憧れ、主人公が勉強に打ち込む姿を真似て、「勉強している自分」にはまる事がありました。
あくまで趣味なので、はまってる時とそうでない時で成績にかなりのむらがありました。
9. 期待されると壊してしまう
高校はしがらみのない遠方の校則の厳しい女子高に行きました。
入学早々、なぜか担任から「期待してるわよ」と言われ、風紀委員に推薦されたり、みんなの前で変な誉められ方をしました。
中学校でも校則違反で怒られてばかりだったのに、「先生は何をみてるんだろう?」と居心地が悪くなりとわざと期待を壊すような行動をしました。
「あなたがそんな人だとは思わなかった」と冷たく言われましたが、先生が勝手に描いた理想像に私は合わせるつもりがありませんでした。
そして期待に縛られてお互いに苦しくなる前に、早いうちに壊しておこうと思っての言動でした。
このような行動は異性に対してもよく表れました。
5年生で我慢をやめて以降、誰かの理想通りに動く事、相手に合わせて「心にない言動」をとることができなくなりました。
全く融通がきかず、(こう言って欲しいんだろうな)(ここはこう振舞うべき)と頭で理解できても、本心でそう感じていないければ、言ったり振舞ったりできません。
そして成人に近づくにつれ、これは生きる上で大問題だと感じるようになりました。
こんなに可愛げがなく不器用なままでは、社会で生きていけないと思い、「自分を変えなければ」と未来への不安が負のループへの入り口となりました。

短大生:トンネルの入り口
10. 世界を一変させた元夫との出会い
10代の終わり、友人を介して3歳年上の元夫と出会います。
彼はすでに仕事で独立し、子方を抱える親方でコミュニケーション力、ハングリー精神など、私が持っていない多くのものを持っているようにみえました。
しかし根底には強烈な「怒り」のエネルギーが溢れていました。
初対面で「危険」「住む世界が違う」と察知していたので、長い付き合いになるとは夢にも思っていませんでした。
11. 人格の破壊、鎧を叩き壊される
気付けば彼が毎日説教をしに来るという不思議な関係になっていました。
人の期待からは逃げていた私ですが、彼は初めから怒ってばかりだったので調子が狂って逃げるタイミングを逃してしまったのです。
本当にしんどくなったら離れればいいという甘い考えもありました。
「こんな自分ではダメだと」と思っていた私は耐えられるところまで耐えてみようという修行のような気持ちもありました。
「劣等感」と「世間知らず」というコンプレックスを克服したいという一心で、人格否定を「成長の機会」という妙な前向きさで受け取ってしまいました。
メイクや服装をはじめ、外出や交友関係、考え方や行動にことごとく口出しされました。
反論できないようなもっともらしい説明をつけて。
顔色を変えず媚びない私の態度はさらに彼を苛立たせ、言葉も激しくなっていきました。
実際に「俺に媚びろ!」と何度も言われました。
「俺を腫れ物のように扱え!」とも。

「…えぇ…?」
(それを自分で言うの?)…と思う事はたくさんありました。
私は身がすくみ、行動できません。
「言われてからやっても遅い!」「言われる前にやれ!」…と続き、言葉が出ずフリーズしていると「何かはよ(早く)言え!」とさらに追い立てられ…
ある日とうとう張り詰めていた糸が切れ、泣き崩れてしまいました。
「傷ついていない振り」の鎧を叩き壊された瞬間でした。
所詮、「振り」なので中身はもろいのです。その後は土足で踏み荒らされていきます。
その日をきっかけに抵抗する気力を失い、次第に好きな事をやめ、言われるがまま友人たちとも離れました。
「連絡しない」と直接宣言させられた人もいました。
本、漫画、音楽の趣味嗜好、当時抱いていた夢を「気持ち悪い」「お前に何が出来るねん」と何度も言われ、楽しんでいた事が次第に恥ずかしくなり、黒歴史として自分を強く否定、封印するようになりました。
そしてその関係は実家と縁を断つまでに発展してしまいました。
私は心配をかけたり怒られることはあっても、親に暴言を吐く事はなかったのですが、彼の指南通りに家の中で暴言を吐き手を付けられない状態になりました。
両親は当然、それは「兎の言葉」でないことはわかるので何とかしようとしてくれたのですが、私の精神、思考は何とも出来ないところまで侵され、父はこのままでは一家全員が壊れると判断しました。
実家を出る事になり、あっという間に世界は一変しました。

12. 束縛とDV、異世界へ入る
実家を出る前から始まっていたDVは、同棲、結婚と進む中でどんどんエスカレートしました。
景色が灰色に変わり、時間の流れが変わり、世間の人とはみえない壁で遮られているように感じました。

21歳~深みへはまる
13. 「私」はもういない
痛みも恐怖も悲しさも悔しさも感じたくありません。
「私は〇んだ」ことにしようとしました。
もう何も…「どうしてこんなことに?」という疑問すら考えたくありませんでした。
実際に実家では私の痕跡をなくすという作業をしてたそうです。
私の名前は禁句になり、写真は私が持ち出した数枚を残して処分されました。
まさかそこまでするとは思いませんでしたが、それだけ私が家族に与えたダメージが大きかったという事です。特にいつも味方でいようとしてくれた父に。
21歳、それまでの私を知る人が一人もいないという環境が出来上がりました。

暴力の理由は初めは束縛や嫉妬心でしたが、次々変わってくるので何でも良かったのだと思います。
彼は逆上しながらも急所を避けていて、骨折をさせないなど冷静な部分もありました。
感情的な暴力の場合、後で優しくなったり謝るという行動に出がちですが、彼の場合は制裁やしつけという名目だったため、感謝を要求されました。
私の両親がしなかったしつけを代わりにしてやっていると言っていました。
思考を縛られ逃げる選択肢がない中、籍を入れたら、子供が生まれたら…
何か変わるかもと微かに期待するのですが、
「これが底辺」と思っていた底はまだまだ深くなりました。

14. 義実家での同居、夫の幼少期を察する、共依存
一人目の娘の出産直前に、彼の実家での同居が始まりました。
同居が決まった時、実は楽しみにしていたのです。
夫と二人でいるのが怖かったので、お義母さんやお義父さんがいれば息子の暴力を止めてくれるのではないかとの期待もありました。
しかしそんな期待はすぐに打ち砕かれました。登場人数が増えれば、問題は何倍にも増えました。
止めてくれるどころか、お義母さんは息子を煽るし、お義父さんは自分にとばっちりがこないよう息子と義母を私に押し付けます。
義母が夫に「鍋を洗ってない」など私の文句を言い、夫は「おかんに文句を言わせるな」と義母の前で私を土下座させます。
正座している私を蹴るので義母は一応止めに入りますが、その状況を作るのはいつも義母なのです。
お義母さんが私のあざだらけの身体や顔を見た時の、
「ひどいことするねぇ」という言葉にどこか表面的な違和感を感じていたのですが、その理由がわかりました。
夫の家族にとって、あざくらい大した問題ではありませんでした。
母と息子、時々父と…親子げんかになると怒号が飛び交い家の中はぐちゃぐちゃになりました。
夫は本棚を倒したり物を投げたり…次々破壊するのですが、かといって義母の勢いも止まりません。
現実感がなく、映画を観るようにこの光景をみていました。
そして娘を抱いて、この罵り合う言葉を聞きませんようにと耳元で明るい歌を歌いました。
夫は一度だけ「この状況を一緒に味わってほしかった」と言いました。
幼い頃から理不尽な扱いを受けてきた事は察するに余りありました。
「強い女性たち」に頭ごなしに押さえつけられ、腕力が逆転した時に何が起こったかも想像できました。
彼は友人の前では育った環境を笑い話のネタにしていましたが、実際に体験するととても笑えるものではありません。
幼い頃からそうやって笑い飛ばす事で本音の「怒りや悲しみ」を抑えてきたのかもしれません。
同居以降彼への印象が変わり、むしろこの環境でよくがんばったとさえ思ってしまいました。
これが結果的に共依存に繋がってしまったのだと思います。

15. 複雑性PTSDとうつ病:腹の底で何かが叫んだ
二人目の娘が1歳を迎えるころ、突然お腹の深い所から大きな叫び声が聞こえました。
25歳、複雑性PTSDとうつ病の発症です。
それまで夫の前で泣いたり、パニック発作のような表現は火に油を注ぐだけなので、極力押し込めていました。
しかし比較的穏やかな時間が続いたある日、腹の底に溜まった感情が火山の噴火のように一気に溢れ出てしまいました。
その日を境にパニック発作は激しい頭痛になって現れ、市販の鎮痛剤が効かず度々精神安定の注射が必要になりました。食べれず眠れず、又は眠ってばかりで立ち上がる気力もなくなりました。
精神科との長い付き合いが始まりました。
3歳と1歳の娘の育児は待ってくれないので、とにかく動けるようになる薬を出してくれと訴えました。薬の影響や後先のことなんか考えず、とにかく「今」動けるようにという事しか考えていませんでした。
その時の先生は思い返すととても良い先生で、「強い薬を」という私の訴えを冗談でかわし、「あなたの場合、薬を飲んでも改善しないよ」と言っていました。
一時避難のように精神病棟への入退院を繰り返しましたが、義実家に預けた娘たちが気になり気が休まる事はありません。
私にとって育児が唯一の生きる意味であり、守りたい対象であり、一緒に成長を楽しみたかったので、うつ状態で寝込んでばかりで身体が動かない事がもどかしくてたまりませんでした。

16. モラハラが激化、生きてるだけで原因が量産
言葉で精神的に追い詰められるのは身体の痛みより辛く感じました。
元々どんくさく、どうがんばってもボケて失敗する私は生きてるだけで怒られる原因を無限に生み出してしまいます。(賞味期限を切らす、何をどこに置いたか忘れる、電気を切り忘れる…など)
夫は一旦怒り出すと何時間も止まらず、私もしばらくは反省して聞くのですが、あまりに長いのでその場から立ち去ろうとします。
…がどこまでも追いかけてきます。彼には諦めるという事がありません。
夜中の3時4時まで説教が続き、「明日仕事、寝不足、どうしてくれるの?どう責任とるの?」とさらに責め立てるのです。
今なら「知らんがな」と言えますが当時は言えませんでした。
17. 「笑わせろ」という地獄の時間
困ったことに怒鳴りながら「俺を笑わせろ」と言うのです。
フリーズしている私に「笑わせて機嫌を取れ」と。
もちろん私にそんな技量があるわけがありません。
「耐える」だけでは乗り切れない時間、
わずかに残る尊厳やプライドや屈辱感など色んなものが粉々になりました。
(なんなん?この人…)

18. 「返品しろ」という地獄の時間
ある時インフルエンザの夫が暇だろうとDVDを借りて帰ったのですが、
「観た事がある、もったいないから返してこい」と言い出しました。
彼は返品できないものを返品してこいという事がよくありました。
返品しにいくまで怒りは止まりません。
怒りが止まらないと、私や娘たちの大切なもの、思い出の品を次々に破壊していきます。
言い方を指南され何度も店や誰かに言いがかりをつけに行きました。
夫に従ってしまったことは何の言い訳もできませんが、関係ない人たちまで巻き込むのは申し訳なくて消えたくなるほど辛いものでした。
もちろん言い分が通るわけがありませんから、返品交換したと嘘をつく事もありました。
日常的に怒られないための嘘をつきすぎて、何が本当で何が嘘かわからなくなりました。
そして当然ですが嘘はすぐばれて、収拾がつかない状態に発展してしまいます。
食べられないものを食べさせられる、ない物を探し続けさせられるなど、「行動」を強いるのは本当に勘弁して欲しいと思いました。
19. 宗教…思考を縛ったもう一つの理由
義母はある宗教に関わっていました。夫は私が義母と勉強するよう勧めました。
その組織は規律が厳しく、私がそこに在籍することは夫にとって都合が良かったのです。
規律の中には同棲の禁止(男女1対1で同じ空間にいてはならない)があり、早々に入籍するに至った理由はそんな所にもありました。
離婚や○殺の禁止も。
宗教活動は私にとっても家から出られる口実になり、組織の人との交流は文句を言われなかったので都合が良かった部分もありました。
そして「○んだら無になる」という教えは感情も感覚も消し去りたかった私にとって、魅力的に思えた部分もありました。
細かく厳しい規則がたくさんある組織でしたが、夫のルールの方がよほど厳しかったので、規則や時間を守る事はとても簡単に出来るようになっていました。
校則でさえ守れなかった私ですが、「(信者として)よくやってますね」と言われて素直に喜び、従順に「きちんとした真面目な人」と見られるような行動をとっていました。
元の私は本当にいなくなっていました。

20. 永遠には続かない事を希望に誤魔化しながらやり過ごす
娘も精神的に不安定になり、スクールカウンセリングや心理療法に連れていきました。
夫についても(心に問題があるのではないか?)と本を読んだり、夫や娘の精神状態の改善を試みてアロマの学校へ通うなど前向きに試行錯誤していました。
しかし一方で「早く終わらないかな」と「寿命が尽きる」ことを待っていました。
「明日の朝、目を覚ましませんように」と何度も祈りました。
夫と出会って世界が変わった日から約20年。
どれだけ泣いたかわからないし、何度も「もういいか」と思いました。
娘のために…と踏ん張りはしますが、それさえ命綱に思えないほど心も身体もすり減っていました。

30代後半~突然の救出
21. 好転への兆し、古い友人に見つけ出される

夫に言われるがまま「連絡出来ない」と断ち切った友人の一人が18年ぶりくらいにFBで連絡を取ってきました。
彼は本業とは別に、社会からはみ出した人たちの更生や支援をしていました。
近況など適当な言葉を並べ報告しましたが、彼には私の嘘や誤魔化しはお見通しだったようです。
彼が知る私はいつも好き勝手に振舞っていて、幸せを装ったりその場を取り繕うような事は言わなかったからです。
だから別人になったことはすぐにメッセージの文面から察することが出来たようでした。

22. 「自分で歩け」…負のループから抜け出す
その後、彼が投げかけたいくつかの言葉が、自分を見直すきっかけになりました。
逃げ出したい気持ちはありましたが、現実的には無理だと思っていました。
夫の元で得られる居・食・住を手放すこと、共依存からくる夫を見捨てるような罪悪感、
健康、社会復帰への不安。私に娘やペットたちを支えていけるのか。
夫に盾つく恐怖感。
それらの壁はあまりにも高く乗り越えられるはずがないと思っていました。
自分に言い訳して動き出せない私に、彼は「自分で歩け」と言いました。
一瞬苦しくなったのですが、
「自分で歩け」という言葉が頭と心をぐるぐる巡りました。
「自分で歩く」とはどういうこと?
私はどうやってここまで来た?
怖くてまた踏みとどまるのか、踏み出す覚悟を決めるのか。
弁護士を探し、仕事を探し、新しい住居を決め、娘たちとペットも連れて…
不安と恐怖を一つ一つクリアし、2015年、20年目にしてようやく別居に踏み切りました。

23. 心を誤魔化すアイテムが必要なくなった
別居と同時に精神科への通院も薬も必要なくなりました。
頼っていた健康や美容目的のサプリや健康飲料も一切摂らなくなりました。
宗教生活も終わりました。
生活の一部になっていたそれらは私自身に必要だったのではなく、心を誤魔化すために必要だっただけでした。
健康・美容サプリを摂らなくなった事は、自分の免疫力や治癒力への強い信頼に繋がり、経済的な負担からも解放され良い事尽くしでした。

24. 前向きな痛み、調停と裁判で5年を費やす
別居から調停、裁判を経て離婚成立まで丸5年。
証拠や証言を集めたり通院先のカルテのコピー、市役所や税務署や、銀行に何度も足を運び、山のような資料を整理する必要がありました。
裁判には多くの労力がかかるとは聞きますが、これはもう本当に大変の一言でした。
そしてその労力は報われるとも限りません。
「裁判」ってなんだろう?と疑問符が付く事も多々ありました。
結果的に娘たちやペットたちとも離れる事になり、負のループから抜けたからといってすぐに平安が訪れるわけではなく、経済的な負担も大きく実際には多くのものを手放さなければなりませんでした。
夫は「経済的に安定し、義実家も健在」な事に対し、私は「通院歴があり実家に頼れずこれから仕事を探す」という現実。
娘たち自身と裁判所の判断は当然で適切だったのかもしれません。
とはいえ、娘たちと離れる事は全く考えていなかったので、心の回復には相当時間がかかりました。
それでも今では一番の気がかりだった娘たちへの心配も信頼に変える事ができようになりました。
そうして痛みを伴いましたが、私は私の人生を取り戻すことが出来ました。

25. 自分のペースで呼吸ができる幸せ
誰かの顔色をみなくていい、息をひそめて怒られないための嘘をつかなくていい。
普通に生活するだけの事が、どんなに素晴らしいことか知る事ができました。
自分のペースで呼吸ができる。
ただそれだけの事。それだけで良かった。

幼少から生き辛さを強く感じていましたが、ずいぶん遠回りしてとてもシンプルな場所に帰ってこれました。
小学生の私に伝えたい事、
「心が拒絶する事は拒絶していいし、周りに合わせられない事に罪悪感を持たなくてもいい。
今自由に呼吸ができてる。それで十分なんだよ。
わざわざ負のループに飛び込まないで。」
でもこれは自由に呼吸ができなくなるような、多くの感情を味わったからこそ気付けたこと。
彼女にそう伝えたところで、「はぁ?」と怪訝な顔をして逃げて行ったに違いありません。

今:トンネルを抜けた先の世界
26. 振り返ってみえるもの、種明かし後の安堵
後になってHSPの特質を知り、潜在意識の仕組み、心理学や精神世界を通して自分に起こった事を振り返ると、みえてなかったことがみえてきました。
映画を観終わったような、マジックの種明かしをみたような、ほっとした感覚です。
そして種明かしを見る前と見た後では世界がまるで違ってみえます。
たとえこの先、一時的に心を揺さぶられるような事が起こっても、感情を支配されることはありません。
一度手品の仕掛けを知ってしまえば、仕掛けを知る前と同じように驚けないのと似ています。
何度も諦めようとした命、今のプレゼントのような時間、せっかく頂いたこれからの時間を誰かのために使いたい、そして生き辛さを抱える人たちが本当の自分を取り戻し、楽に生きられるための方法を、伝えていきたいと思いました。
私が暗いトンネルから見つけ出してもらえたように、今も一人で声を殺して泣いている人がいるなら、とんで行きたいと思っています。

27. 自分の物語を自分で描くということ
「お互いに敬意を持ち、
お互いを想い合える
やさしい人たちが心から安心して生きられる世界を」
これが私が創りたい世界です。

あなたはあなたの物語を今この瞬間から書き換える事ができます。
ちょっとしたコツさえ知ってしまえば。
これは幻想や不思議な話ではありません。
知らず知らずのうちに受け身で進んできてしまった自分の物語、
その中にヒントは散りばめられています。
私たちはすでに必要なものを与えられています。
ヒントを見つけるには、どれだけ深くその物語を読み解けるかが鍵になります。
自分の物語から見つけ出した唯一無二の宝物を携え、
これから先の物語は意識的に描くことが出来るようになるのです。
あなたはあなたの物語をどんなストーリーにしたいですか?
あなたが創りたい世界はどんな世界ですか?
今、心を重くしている問題から解き放たれたい方や
もう少し先へ進んでみたい方…。
あなたの本来の輝きを取り戻すためのカウンセリングにて
お会いできることを楽しみにしています

心はあなたを待っています
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
置かれている環境、問題の大小は関係ありません。
あなたが感じた小さなもやもや、違和感は聞き逃してはいけない心からのサインです。
あなたの大切な心の声を「こんなことで…」なんて思わないでくださいね。
心はいつもあなたに何かを伝えようとしています。
吐き出すだけでもすっきりします。話したい事がまとまってなくても大丈夫です。
気楽にお話しをしにきてくだされば嬉しいです。
小さな、でも勇気ある一歩を。
お会いできることを楽しみにしています。
あなたの本来の輝きを取り戻すための心理セラピスト
二兎
(したながうさぎ)

あなたとあなたの大切な人たちが、優しく安心できる世界で生きられますように。
カウンセリングってどんな事をするの?
カウンセリングっていっても何を話せばいいかわからない。
何をするの?気になるけど不安…。
そんなあなたへ…お気軽にどうぞ♪
