心理セラピスト 二兎 です。
本音を抑えながら生きている方へ向けて
あなた本来の輝きを取り戻すためのカウンセリングをしています。

かつての私自身は身近な人に本音を話すことがとても下手でした。
聞いた人が暗い気持ちにならないか、愚痴ばかり聞かせてしまっていないかと気を使い、
話せたとしても笑い話にしていました。
そんな時に助けになったのが、遠慮なく本音を吐き出せるカウンセラーさんたちの存在です。

クライアントとカウンセラーの信頼関係はとても大切だと思っています。
安心してカウンセリングを受けて頂くために、カウンセラーを志すまでの道のりや想いを知っていただければと思います。
色々こじらせて自ら悪循環に飛び込んでいく私を、「変わった人だなぁ」くらいに思っていただければ幸いです。
長いので年代ごとに目次にしています。
もし興味を持っていただけたらそのまま読み進めてください♪
(過激に感じられる表現があるかもしれません。トラウマがある方、苦しくなりそうなら戻ってくださいね)

プロフィール目次
【幼少期】
1.生まれた時から神経過敏
2.理由のない劣等感、子どもらしくない子ども
3.HSP、説明できない心の中、誰とも心が交わらない
【小学生】
4. 自分を抑えて…爆発し解放する
5. 劣等感をこじらせ、家族のトラブルメーカーになっていく
6. 我慢をやめたら、誰にも合わせられなくなった
7.「傷ついてない振り」が本物になっていく
【中学・高校生】
8. どこにも属していない感覚と充実したひとり時間
9. 期待されると壊してしまう
【短大生~:トンネルの入り口】
10. 世界を一変させた元夫との出会い
11. 人格の破壊、鎧を叩き壊される
12. 束縛とDV、異世界へ入る
【21歳~深みへはまる】
13.「私」はもういない
14. 義実家での同居、夫の幼少期を察する、共依存
15. 複雑性PTSDとうつ病:腹の底で何かが叫んだ
16. モラハラが激化、生きてるだけで原因が量産
17. 「笑わせろ」という地獄の時間
18. 「返品しろ」という地獄の時間
19. 宗教…思考を縛ったもう一つの理由
20. 永遠には続かない事を希望に誤魔化しながらやり過ごす
【30代後半~突然の救出】
21. 好転への兆し、古い友人に見つけ出される
22. 「自分で歩け」負のループから抜け出す
23. 心を誤魔化すアイテムが必要なくなった
24. 前向きな痛み、調停と裁判で5年を費やす
25. 自分のペースで呼吸ができる幸せ
【今:トンネルを抜けた先の世界】
幼少期
1.生まれた時から神経過敏
私は両親と祖父母、3人兄弟の長女として大阪で生まれました。
何度も聞かされたのは、生まれた時から神経過敏で育てにくかったこと。
寝ない、食べない、泣いてばかり。
幼少時代からHSPの繊細な気質はよく表れていました。
家は古くからの商売をしており、家族は皆マイペース、父はひょうきんで自由人。
母は真面目で家族を支える芯の強い人でした。
少し浮世離れしたところもありましたが家の中は安全でした。その分心の免疫力は弱く、外の世界は危険だと感じていました。

2. 子どもらしくない子ども、理由がわからない劣等感
幼稚園では、元気なみんなのテンポについていけませんでした。
みんなで歌ったり踊ったりするのもなぜか嫌でたまりません。
ですが先生や友達に「どうしたの?」と聞かれたくなくて、泣いたり駄々をこねたりも出来ません。
苦手な遊びもたくさんありました。
例えば、「花いちもんめ」。
仲間で相談して相手チームの子を「あの子が欲しい」「この子が欲しい」と取り合うのですが、
人気があって何度も呼ばれる子と呼ばれない子が出来てしまいます。
呼ばれないのも辛いし、自分が呼ばれても残される子の事を思うと喜べません。
そして誰かを選ぶのも辛い…。変な遊びだと思っていました。
気を使うばかりで全然楽しくありません。
子供の正直さは怖かったのですが、みんなと同じようにならなければとも思っていました。

3. HSPの説明できない心の中、誰とも心が交わらない
大きな声や激しい動きに圧倒されていましたが、子供なので感じてることを上手く説明できず、
話したとしても大抵「それがどうしたの?」「気にしすぎ」という反応が返ってきます。
「みんなそんな事言ってないよ」と。
説明すればするほど自分がおおげさで、わがままを言ってる気がしてきました。
言葉が届かない、想いが伝わらない。
誰とも心が交わらない感覚が積み重なり、「自分が我慢すればいい…」と考えるようになりました。
そのうちわかり合えないのが普通だと思うようになりました。
家族から愛されていることはわかっていたし、私も家族を愛していましたが、
愛される事と、心が通い合う事は別物だと感じていました。

小学生
4. 自分を抑えて…爆発し解放する
小学校でもボソッと蚊のなくような声しか出せず、通知表には「もう少し声を聞きたかった」と書かれるほど静かでした。
先生にも誰にも話しかけられないよう、出来るだけ目立たないように隠れていたり、内心ビクビクしていることを悟られないよう平然を装ったり、感覚を研ぎ澄ましながら感覚を押さえつけるというわけのわからない事をしていました。
低学年の登校中、突然学校へ行くのをやめました。
いつもは曲がらない角を曲がり通学路を外れ、知らない道をどんどん進みました。
学校から連絡が入り母には心配かけてしまいましたが、その瞬間はとても気持ち良く、解放感でいっぱいでした。
時々押さえつけてるものが爆発して自分でも予測できない行動をしていました。

5. 劣等感をこじらせ、トラブルメーカーになっていく
みんなと同じようにできない、劣等感の理由を考え続け、
私の弱さの理由は、「世間の荒波にもまれていないから」だと考えるようになりました。
友達が親に「うるさい!」と言ってるのを聞くだけでびっくりするなど、他の家の家族や兄弟間の激しいやり取りに、何度もカルチャーショックを受けていました。
私は「口げんか」をほとんど知りませんでした。20時就寝で学校で人気だったドリフやひょうきん族などのテレビ番組からの情報も入ってきていませんでした。
すると同じ環境にいる妹や弟の事が心配になりました。
特に男の子たちの激しいけんかを見ていたので、大事にされている弟が心配でたまりません。
私のように幼稚園や学校で苦労しないようにと、年の離れた弟に辛く当たるようになりました。

弟が傷つかないための予防策のつもりでしたが、親からはいじめてるようにしか見えません。
説明しても言い訳にしか思われず、わかってもらえないので次第に説明をしなくなりました。
怒られても気にする事なく学校の男の子の言葉を真似て、
私なりに必死で弟を鍛えようとしていました。
家族にとって私は「弱いものにストレスを発散する困った子」になっていきました。
弟からすれば本当に迷惑な話です。
この件は弟に言った事がないので、意地悪な一番上の姉という思い出しかないと思います。
そうやって様々な事を勝手に思い込んで先回りし、空回りを繰り返して家族内のトラブルメーカーになっていきました。

6. 我慢をやめたら、誰にも合わせられなくなった
4年生までは大人しく過ごしていましたが、5年生になるとそれも面倒になってどうでもよくなりました。
家での厄介者扱いが意外と心地良いことに気付いてしまい、これを反抗期というのかわかりませんが、学校でも問題行動が増えました。
誰もいない静かな通学路が気持ち良く、時間通りに学校に行かなくなりました。
6年間欠かさず日記を書くという宿題があったのですが、書かなくなりました。
当時は体罰が当たり前で、反省文も増えました。
6年生では友達とプチ家出をして騒ぎを起こしました。
母は何度も学校から呼び出され、「あなたを理解できない」と頭を抱えていました。
先生の体罰も母のビンタも平気だったので、私は私を抑えられなくなっていました。
両親が心を痛めてることは心苦しかったので
「苦しめたくない、でも合わせられない、だからもう私の事は気にしないで欲しい、」と訴え、母をさらに混乱させてしまいました。
父は私を「あいつは変なやっちゃ(奴や)」と言いながらも「あいつを理解できるのは自分だけ」と言わんばかりに可愛がってくれていました。
7.「傷ついてない振り」が本物になっていく
クラスではいじめが横行していましたが、その輪の中にも入りませんでした。
ボスのような女の子たちから呼び出され、「〇〇と手を切れ」と命令されましたが、「意味がわからない」ととぼけて従いませんでした。
ターゲットにされている子に普通に接するので私も何度も集団無視されたのですが、
何年も「傷ついていない振り」をしていたので、平気な顔が本物のようになっていました。
私の反応が薄いので、無視もいやがらせもいつも自然に終わっていました。
中学、高校生
8. どこにも属していない感覚と充実したひとり時間
中学でも先輩に嫌われたり、同じような事が何度も起こりました。
そのうち無視されたとしても、
「兎は無視しなかったから」と近くに来てくれる子が出てきてくれました。
相変わらず校則は守れず内申点を気にしたこともありません。
クラス、グループ、バスケ部、家族…どこにいてもどこにも属していない感覚がありました。
一方、お菓子作り、読書、パッチワーク、カメラ、エレクトーン…一人時間は充実していました。
成績や偏差値には全く興味を持てませんでしたが、「あしながおじさん」や「赤毛のアン」に憧れ、
主人公がすごく勉強するので「勉強している自分」にはまる事があり、それはラッキーだったと思います。
あくまで趣味なので、はまってる時とそうでない時で成績にむらがありました。
9. 期待されると壊してしまう
高校は遠方の誰も私を知らない校則の厳しい女子高に行きました。
一人で登下校したかったのと、しがらみがない所へ行きたかったのです。人間関係は無意識に気を使ってしまうので一人の時間が必要でした。
入学早々、なぜか担任から「期待してるわよ」と言われ、風紀委員に推薦されたり、
みんなの前で変な誉められ方をしました。
中学校でも怒られてばかりだったのに、「先生は何をみてるんだろう?」居心地が悪くなりとわざと期待を壊すような行動をしました。
「あなたがそんな人だとは思わなかった」と冷たく言われましたが、
先生が勝手に描いた理想像に対して、私はそれに合わせるつもりがないという意思表示でした。
期待が大きくなってお互いに苦しくなる前に期待を壊しておこうと思いました。
この行動は異性に対してもよく表れました。
よくある恋愛テクニックのような言葉は、言うのも言われるのも苦手で、
妙に優しくされたりわかりやすい表面的な誉め言葉からはすぐに逃げていました。
5年生で我慢をやめて以降、人と違う事をして目立ちたかったわけではなく、
誰かの理想通りに動く事、学校などの枠組みに合わす事、
相手に合わせて「心にない言動」をとることがどうしても出来なくなりました。
可愛くないし上手く立ち回れない損で不器用な性格だと思っていました。
そして成人に近づくほど、「これでは社会で生きていけない」「自分を変えなければ」という不安を抱くようになり、未来への不安が負のループへの入り口となりました。

短大生:トンネルの入り口
10. 世界を一変させた元夫との出会い
10代の終わり、友人を介して3歳年上の元夫と出会います。
彼はすでに仕事で独立し、子方を抱える親方でコミュニケーション力、上昇志向、
私に欠けている多くのものを持っているようにみえました。
しかし根底には強烈な「怒り」のエネルギーが溢れていました。
初対面で「危険」「住む世界が違う」と察知していたので、
長い付き合いになるとは夢にも思っていませんでした。
11. 人格の破壊、鎧を叩き壊される
気付けば彼が毎日説教をしに来るという不思議な関係になっていました。
人の期待からは逃げていた私ですが、彼は初めから怒ってばかりだったので調子が狂って逃げるタイミングを逃してしまいました。
怒られ慣れしていたのと、「劣等感」と「世間知らずで弱い」というコンプレックスを刺激され、人格否定を「成長しなければ」と良い風に受け取ってしまった事も要因だと思います。
メイクや服装をはじめ、外出や交友関係、考え方や行動にことごとく口出しされました。
「だからお前はだめなんだ」ともっともらしい言葉と共に。
私の媚びない態度はさらに彼を苛立たせ、言葉も激しくなっていきました。
実際に「俺に媚びろ!」と何度も言われました。
彼の伝え方は良く言えばストレートで、何を要求されてるかすぐにわかりました。私にない表現方法で、こんな人もいるんだと(これは人生の修行)と思っていた部分があったかもしれません。
要求がわかりやすいとはいえ、
「言われてからやっても遅い!」「言われる前にやれ!」…と続き、
(ほなどないせいっちゅうねん)と思うものの言い返せないままフリーズし、
さらに「何かはよ(早く)言え!」と追い立てられ…
ある日とうとう張り詰めていた糸が切れ、泣き崩れてしまいました。
「傷ついていない振り」の鎧を叩き壊された瞬間でした。
所詮、「振り」なので中身はもろいのです。その後は土足で踏み荒らされました
それをきっかけに抵抗する気力を失い、次第に好きな事をやめ、
言われるがまま友人たちとも離れました。
「連絡しない」と宣言させられた人もいました。
本、漫画、音楽の趣味嗜好、当時抱いていた夢を「気持ち悪い」と言われ、
楽しんでいた事全てが急に恥ずかしくなり、黒歴史として自分を強く否定するようになりました。
そして元夫との関係は
実家と縁を断つまでに発展してしまいました。
あっという間に世界は一変しました。

12. 束縛とDV、異世界へ入る
実家を出る前から始まっていたDVは、同棲、結婚と進む中でどんどんエスカレートしました。
景色が灰色に変わり、時間の流れが変わり、世間の人とはみえない壁で遮られているように感じました。

21歳~深みへはまる
13. 「私」はもういない
「私は〇んだ」
痛みも恐怖も感じるのが辛く、現実を受け止められず「なんでこんなことに?」なんて最早考えたくもなく、「私は〇んだ」と思い込もうとしました。
それでも実際は生きてるので感覚や感情が戻ってきてしまいます。悲しさも悔しさも何も感じたくありませんでした。
実際に実家では私の痕跡をできるだけなくすという作業をしてたそうです。
私の名前は禁句になり、写真は私が持ち出した数枚を残して処分されました。
まさかそこまでするとは思いませんでしたが、それだけ私が家族に、特にいつも味方でいようとしてくれた父に与えたダメージが大きかったという事です。
21歳、私を知る人が一人もいないという環境が出来上がりました。

暴力の理由は初めは束縛や嫉妬心でしたが、次々変わってくるので何でも良かったのだと思います。
彼は逆上しながらも急所を避けていて、骨折に気をつけるなど冷静な部分もありました。
感情的な暴力の場合、後で優しくなったり謝ったりするのですが、
彼の場合は制裁やしつけという名目だったため、「ありがとうは?」と感謝を要求されました。
思考を縛られ逃げる選択肢がない中、籍を入れたら、子供が生まれたら…
何か変わるかもと微かに期待するのですが、
「これが底辺」と思っていた底はまだまだ深くなりました。

14. 義実家での同居、夫の幼少期を察する、共依存
一人目の娘の出産直前に、彼の実家での同居が始まりました。
同居が決まった時、実は楽しみにしていたのです。
さすがに寂しかったのと夫と二人でいるのが怖かったので、お義母さんやお義父さんがいれば息子の暴力を止めてくれるのではないかとの期待もありました。
しかしそんな期待はすぐに打ち砕かれました。登場人数が増えれば、問題は何倍にも増えました。
止めてくれるどころか、お義母さんは息子を煽るし、お義父さんは自分にとばっちりがこないよう息子と義母を私に押し付けます。
義母が夫に「鍋を洗ってない」など私の文句を言い、夫は「おかんに文句を言わせるな」と義母の前で私を土下座させます。
正座している私を蹴るので義母は止めに入りいい人に転じますが、その状況を作るのはいつも義母なのです。
お義母さんが私のあざだらけの身体や顔を見た時、
「ひどいことするねぇ」と言う反応に違和感を感じていたのですが、その理由がわかりました。
夫の家族にとって、あざくらい大した問題ではなかったのです。
親子げんかになると家の中はぐちゃぐちゃになりました。
夫は本棚を倒したり物を投げたり…次々破壊するのですが、かといって義母も止まりません。
現実感がなく、映画を観るようにこの光景をみていました。
そして娘を抱いて、この罵り合う言葉を聞きませんようにと耳元で明るい歌を歌いました
夫は一度だけ「この状況を一緒に味わってほしかった」と言いました。
幼い頃から理不尽な扱いを受けてきた事はよく理解できました。
「強い女性たち」に頭ごなしに押さえつけられ、
腕力が逆転した時に何が起こったかも想像できました。
彼は育った環境を笑い話のネタにしていましたが、
実際に体験するととても笑えるものではありません。
幼い頃からそうやって笑い飛ばす事で本音の「怒り」を抑えてきたのかもしれません。
同居以降彼への印象が変わり、むしろこの環境でよくがんばったとさえ思ってしまいました。
これが共依存に繋がってしまったのだと思います。
そして実家が私と縁を切ってくれていて心底良かったと思いました。
絶対に巻き込みたくなかったので、実家が守られた事がせめてもの救いだと思っています。

15. 複雑性PTSDとうつ病:腹の底で何かが叫んだ
二人目の娘が1歳を迎えるころ、
突然、お腹の深い所から大きな叫び声が聞こえました。
25歳、複雑性PTSDとうつ病の発症です。
当時はまだうつ病は社会的にメジャーではなく、PTSDは戦争からの帰還兵の心の後遺症という認識だったので、自分に何が起こったのかわかりませんでした。
精神科との長い付き合いが始まりました。
一時避難のように精神病棟への入退院を繰り返しましたが、
義実家に預けた娘たちが気になり気が休まる事はありませんでした
私にとって育児が唯一の生きる意味であり、成長を楽しみたかったので、
うつで寝込んでばかり、身体が動かない事がもどかしくてたまりませんでした。

16. モラハラが激化、生きてるだけで原因が量産
精神的に追い詰められるのは身体の痛みより辛く感じました。
元々どんくさく、どうがんばってもボケて失敗する私は生きてるだけで怒られる原因を作り出してしまいす。(賞味期限を切らす、何をどこに置いたか忘れる、電気を切り忘れる…)
よくそんな次から次へと言葉が出てくるな、と感心してしまうのですが、
一旦怒り出すと何時間も止まらず、その場から逃げてもどこまでも追いかけてきます。
夜中の3時4時まで説教が続き、「明日仕事、寝不足、どうしてくれるの?どう責任とるの?」と言うのです。
今なら「知らんがな」と言えますが当時は言えませんでした。
17. 「笑わせろ」という地獄の時間
怒鳴りながら「俺を笑わせろ」と言うのです。
フリーズしている私に「笑わせて機嫌を取れ」と。
これは一体なんでしょうか?
もちろん私にそんな技があるわけがありません。
「耐える」だけでは乗り切れない時間、
わずかに残る尊厳やプライドや屈辱感など色んなものが粉々になりました。
(なんなん?この人…)

18. 「返品しろ」という地獄の時間
ある時インフルエンザの元夫が暇だろうとDVDを借りて帰ったのですが、
観た事があるから返してこいと言い出しました。
彼は返品できないものを返品してこいという事がよくありました。
返品しにいくまで怒りは止まりません。
怒りが止まらないと、私や娘たちの大切なもの、思い出の品を次々に破壊していきます。
言い方を指南され何度も店や誰かに言いがかりをつけに行きました。
夫に従ってしまったことは何の言い訳もできませんが、関係ない人たちまで巻き込むのは消えたくなるほど辛いものでした。
もちろん言い分が通るわけがありませんから、返品交換したと嘘をつく事もありました。
日常的に怒られないための嘘をつきすぎて、何が本当で何が嘘かわからなくなりました。
食べられないものを食べさせられる、「ない」物を探し続けさせられるなど、「行動」を強いるのは本当に勘弁して欲しいと思いました。
19. 宗教…思考を縛ったもう一つの理由
義母はある宗教に関わっていました。夫は義母と勉強するよう勧めました。
規律が非常に厳しく、私がそこに在籍することは彼にとって都合の良いものでした。
規律の中には離婚の禁止もありました。
私にとっては家から出られる口実になり、
組織の人との交流は文句を言われなかったので都合が良かった部分もありました。
夫のルールの方がよほど厳しかったので、
細かくて厳しい事で有名でしたが守るはとても簡単でした。
人の期待や規則を守れなかった私ですが、
「(信者として)よくやってますね」と言われて喜び、「きちんとした人」と見られるようがんばる人になっていました。
元の私は本当にいなくなっていました。

20. 永遠には続かない事を希望に誤魔化しながらやり過ごす
娘も精神的に不安定になり、スクールカウンセリングや心理療法に連れていきました。
夫は何かの病気じゃないかと思い、本を読んだり精神状態が改善しないかとアロマの学校へ通うなど前向きに試行錯誤していました。
しかし一方で「早く終わらないかな」と「寿命が尽きる」ことを待っていました。
夫と出会って世界が変わった日から約20年。
どれだけ泣いたかわからないし、何度も「もういいか」と思いました。
娘のために…と踏ん張りはしますが、それさえ命綱に思えないほど心も身体もすり減っていました。

30代後半~突然の救出
21. 好転への兆し、古い友人に見つけ出される

20歳頃、夫に言われるがまま「連絡出来ない」と断ち切った友人の一人が18年ぶりくらいにFBで連絡を取ってきました。
彼は本業とは別に、社会からはみ出した人たちの更生や支援をしていました。
近況など表面的な言葉を並べましたが、彼には私の嘘や誤魔化しはお見通しだったようです。

22. 「自分で歩け」…負のループから抜け出す
その後、彼が投げかけたいくつかの言葉が、自分を見直すきっかけになりました。
離婚はいつも頭の片隅にありましたが、現実にその壁はとてつもなく大きく、
乗り越えられないと思い込んでいました。
そこで得られる居・食・住を手放すこと、共依存からくる夫を見捨てるような罪悪感、
健康、社会復帰への不安。私に娘やペットたちを支えていけるのか。
何より、夫に盾つく恐怖感。
自分に言い訳して動き出せない私に、彼は「自分で歩け」と言いました。
一瞬、「うっ…」となったのですが、この言葉をどう捉えるかが、
この先の道を大きく変えたと思います。
怖くて踏みとどまるのか、踏み出す覚悟を決めるのか。
彼はその一瞬を救い出すのではなく、その後も私が自分で進み続けられるように前ではなく後ろを支えてくれていました。
ひとりでは到底出来なかったと思います。
彼は私のような、もっと目の覆いたくなるようなケースを嫌と言うほどみてきていました。
彼の言葉は重く、表面的な優しさだけではないと信頼する事ができました。
弁護士を探し、仕事を探し、新しい住居を決め、娘たちとペットも連れて…
不安と恐怖を一つ一つクリアし、2015年、20年目にしてようやく別居に踏み切りました。

23. 心を誤魔化すアイテムが必要なくなった
別居と同時に精神科への通院も薬も必要なくなりました。
健康や美容目的のサプリや健康飲料も一切摂らなくなりました。
宗教生活も終わりました。
生活の一部になっていたそれらは私自身に必要だったのではなく、心を誤魔化すために必要だっただけでした。

24. 前向きな痛み、調停と裁判で5年を費やす
別居から調停、裁判を経て離婚まで丸5年。
結果的に娘たちやペットたちとも離れる事になり、経済的な負担も大きく、実際には多くのものを手放さなければなりませんでした。
ループから抜けたからといってすぐに平安が訪れるわけではありませんでしたが、前に進むためと思うと我慢は辛抱に変わりました。

心の回復には時間がかかりましたが、一番の気がかりだった娘たちへの心配も信頼に変える事ができました。

25. 自分のペースで呼吸ができる幸せ
誰かの顔色をみなくていい、息をひそめて怒られないための嘘をつかなくていい。
普通に生活するだけの事が、どんなに素晴らしいことか知る事ができました。
自分のペースで呼吸ができる。
ただそれだけの事。それだけで良かった。
劣等感を抱え、生き辛さばかりを感じていましたが、
ずいぶん遠回りしてとてもシンプルな場所に帰ってこれました。
でもこれは息をひそめる経験をしたからこそ気付けたこと。
小学生の私に「自由に呼吸できてるんだから君は幸せだよ」なんて言っても
「はぁ?」と怪訝な顔をして逃げて行ったに違いありません。

今:トンネルを抜けた先の世界
後になってHSPの特質を知り、潜在意識の仕組み、心理学や精神世界を通して自分に起こった事を振り返ると、みえてなかったことがみえてきました。
映画を観終わったような、マジックの種明かしをみたような、ほっとした感覚です。
何度も諦めようとした命、今のプレゼントのような命、
せっかく頂いたこれからの時間を誰かのために使いたいと思いました。
私がトンネルから見つけ出してもらえたように、
今も一人で声を殺して泣いている人がいるなら、とんで行きたいと思っています。

「お互いに敬意を持ち、
お互いを想い合える
やさしい人たちが心から安心して生きられる世界を」
これが私が創りたい世界です。
私は私の物語を自分で描くことに決めました。
あなたはあなたの物語を今この瞬間から書き換える事ができます。
あなたはあなたの物語をどんな物語にしたいですか?

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
私は10代までは、不自由のない環境の中で劣等感や生き辛さを抱えていました。
誰かに話せば「何が不満なの?」「贅沢な悩み」と受け取られる事もありました。
しかし置かれている環境、問題の大小は関係ありません。
あなたが感じた小さなもやもや、違和感は聞き逃してはいけない心の声です。
あなたの大切な心の声を「こんなことで…」なんて思わないでくださいね。
吐き出すだけでもすっきりします。話したい事がまとまってなくても大丈夫です。
気楽にお話しをしにきてくだされば嬉しいです。
小さな、でも勇気ある一歩を。
お会いできることを楽しみにしています。
あなたの本来の輝きを取り戻すためのカウンセラー
二兎
お試しカウンセリングのバナーを入れる

あなたとあなたの大切な人たちが、優しく安心できる世界で生きられますように。